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2024年1月

 1月1日に起こった能登半島大震災は甚大な被害をもたらしています。寒気の中で避難生活をしておられる皆さんの辛さに思いが巡り続けます。東灘教会でも被災者生活支援募金に取り組んでいます。どんな形であっても被災された方々につながる支援を続けていこうと思っています。

 1月21日(日)は兵庫教区の礼拝交流(交換講壇)でベテル清水教会(明石市魚住町)の井上眞一牧師をお迎えして礼拝を守りました。私は礼拝交流ではじめて清水ベテル教会に出かけ、礼拝を守りました。毎週の礼拝はLIVE配信されています。北九州の単立教会との交流があり、主任牧師が亡くなられて教会が閉じられたため、信徒の皆さんがベテル清水教会の教会員となって、20名ほどの方がLIVE配信で礼拝を一緒に守っておられるのです。あたたかな教会のつながりを思いました。

 遠い昔、神に名前を尋ねた人がいました。モーセです。エジプトの地で苦役にあえぐイスラエルの人々を連れ出せと神から命じられたとき、モーセは、もし人々から、そのようなことを命じる「神の名は何というのか」と聞かれたら、どう答えたらよいのかと神に問いました。返ってきた答えが「わたしはある。わたしはあるという者だ」でした。名前はその人の存在全体、生き方そのものを表わす、それが聖書の時代の人々の理解でした。ですから、神がモーセに告げた「わたしはある」という名は、聖書の神の本質を示すものだと考えていいと思います。だとすればとても大事なことです。

 クリスチャン詩人として知られる八木重吉の詩の中で、「信仰詩篇」として編まれた詩集があります。その詩集に「太陽」と題された詩が数篇収録されています。そのひとつの詩で、神のことをこう歌っています。「あなたは総べてのものへいりこむ/炭にはいっていて赤くあつくなる/草にはいっていて白い花になる/恋人にはいっていて瞳のひかりとなる」 これは「わたしはある」という名をもって示される神のことを的確にとらえた詩だと思っています。八木重吉が歌う神のあり方は、相手を自分の枠に引きづり込んだり、自分の考えに合わさせるのではなく、相手が持っているものを大切に受けとめ生かすという関わり方です。炭をあつくする。草に白い花を咲かせる。恋人の瞳を輝かす。炭も草も恋人もそれぞれに輝いています。「わたしはある」という名の神は、人の中にそっと入り込み、持っているものを失わずにその人が生かされるように、働くのです。




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